昭和五十七年五月十二日 朝の御理解


御理解第九十五節
世には神を売って食う者が多いが、この方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。


 私はまあだ、御商売をさせて頂いております頃に、大阪に参りました時、玉水教会に初めて御神縁を頂いた。そりゃ、まあ、大変な御参拝でした。私はもう、九州流で一生懸命大祓をあげよったら、誰かが肩をえらい叩きますもん。ああせからしか、御祈念中に誰が叩きよるやろかと思うて、こうしてたら、また、その、大阪弁でいわれるわけです。もしもしあなた、声を出して大祓をあげたらいけませんと、こういうわけです。というて、その注意を受けたことがございましたが、とにかく、たくさんの人があのう、もう四六時中御参拝があってますけれども、そのお参りの仕方の簡単な事。
 もうお取次を頂くでも、願いでもまあ何とその実に簡単、立ちながらどうぞどうぞといったような感じ。忙しい人はそんな云うて帰んなさる。すると御結界から先生がよっしゃぁち云わっしゃるだけです。もう実に、そのまあ商売人の町といわれるまでですからね。そのうやっぱり、そこの流儀があるとはいえ、そのま、教えをだから、頂いてといったような、例えば、これが甘木あたりになりますと、とにかく、お取次を頂く先生が御神米を簡単に下げなさらん。御神米をちゃんと手にこうもっておられて、そして、お話をきかにゃ帰さんと云うような御流儀やったですね。
 朝の御祈念にやっぱり、たくさんのお参りがあるとに、いっちょいっちょ、御神米を頂いて、帰らんならんのやっぱ、もう頂かんで帰らんひとの、あるあの袱紗に包んだ御神米入れが、御結界のそこんところにこんな玉串案、台がそこに、いっぱいあのう、こう重ねてありました。何でやろうかと思ってました。
 ところが、朝の御祈念に参って、その御理解を頂かずして帰ったという人達のが、御神米をこう、前の日のが出してあるわけなんでしょうね。まあ、どれが本当。とにかくああした、甘木にしろ、玉水にしろ、当時の日本一と云われるような、御比礼が輝いたのですから、ま、云うことは、ないのですけれども、私は今日の御理解を頂いておって、ただ、おかげを頂くから、ただ、お伺いが出来なさるからといったような、云うなら、神様を便利屋さんに、例えば、今日は、どこどこに集金に行きますけんよろしゅうと、よっしゃぁ、といったような程度であったらね、いわゆる、神様を集金人に使うような事であり、又は、神様を便利屋さんに使うような事ではいけないという、そういう流儀ではないんだぞと、教えておられるような気がしますね。
 神を確かに、神を商法に使ってるようなところがありますよね。お礼をね、例えば、ま、ここのなら大工さんなら、大工さんでもそうです。交通安全のお札があり、又はなんですかね、天神様は特に試験なんかの祈願の特別のお札があったり、そして御祈念、御祈祷料というのが、特別願いを拝殿に上がって御祈念をしてもらうと、それは、いくらだとちゃんというなら、定価が決まっておる。
 こういう意味の事を教祖はおっしゃったんじゃね。銭金では拝まんと、神を商法にしてはならんと云うことを、同時になら、おかげを受ける方もやはり、そうです、神様を便利屋さんに、あれもかれも、お伺いして、便利がいいですからね。そりゃ、ね。
 どこまでも、その、お伺いをすると云うことは、御神意のままに生きたいというのがお伺いなんですよね。合楽の場合は、そうです。でなからにゃまたいけんと思う。けれども、やはり分からない人はただ、お伺い事やらだけでお参りをする人もありますけれどもね、なら、神を商法に使うてはならぬ、便利屋さんにしてはならない。
 私、今、ここへつかせて頂いたら、昨日は植木教会の大祭で、ここから先生方がいつも参りますから、奉仕に御神米をここにおいてあるんですよ。それで私、今の事を思い出したんですけれども、私、大阪に初めてお参りしたときに、お初穂袋がなかったから、とにかく向こうの研修室を倍にしたくらいな、お広前の一角がこう、事務所になっておるです。ここのように、事務所もなからなければ、受け付け、事務所もないです。お広前の一角が、やっぱし、十人位な先生方がこう事務を執っておられますね。
 そこであのう、ある人があのお初穂をこう折っとられました。そしたら、その、向こうの方に、座っとられる先生が、そりゃ、左前ですねと云うておらびよんなさいます。左前になったらあかんでしょうが、というわけなんです。成る程、左前と縁起が悪いですけれども、この御神米は左前になっとるわけなんですよね。普通とは反対に、左前に御神米がなってるのを見てから、はあ、ホンにあんな事があったなぁと、これはまあ、左前がよい悪いのではないけれども、ひだりまえになったら、いけないでしょうがとね、いわば、段々店が衰微していくということを左前とこう、で、そういうところにも、やはり、こう、神経が使うてあるですね。玉水さんあたりは。
 ですからま、云うなら、商売人にアピールするというでしょうかね。そんな感じです。いわゆる商都といわれる大阪ですから、教会もやっぱ、そういう流儀、とにかく、合楽風に、ゆっくり御理解でもしよると参りてはなかごとなる。ね。 ですからもうあちらに参りますと、御紋が、こう八ツ波の御紋が、こう建っている、その御紋章のところがもうピカピカ光よる。それがもう参っちゃこんのです。表まできてから、みんな商売に出よる人達が、それをこう撫でていきゃ、祖に日、商売があると云われるくらいに、御比礼が輝いた。
 それであんまり、そこを撫でに来る者が多いから、ここを撫でてはいけませんというて、紙を張ってあると、その紙をはいでから撫でて行くそうです。教会のお徳とは大したもんですよね。結局ま、大阪あたりでは金光様を商売の神様のように云うわけです。四国あたりでは、喜びの神というて、あの、お産の神様と一般では云うそうですね。
 だからこれ、合楽の場合は、なら、どう云うことだろうかね、そんなに、例えば、お伺い事で、ちょっと参ったというても、私は必ず朝の御理解を頂いて行けよと、忙しいなら一言でもよいから、頂いて行けとこう、まあ、申します。
 今日私は、今日の御理解のどこを皆さんに聞いて頂こうかと思うたら、神を商法にというその”法”という字を頂くんです。サンズイ遍に去ると書いてね。やはり、合楽では、やはり、この、お話を頂かなければ、ここを去られない。参ったら最後、一口でも御理解を頂かなければ帰られないね。いわゆる、御理解であるね。合楽の事をまあ、いろいろな、もうとにかく、先生が喜びの権化のような方ですから、喜びの信心で沢山な人が助かっておると云う教会。
 非常に、祈念力が強い。あちらの先生の祈念力で人が助かってるという教会、様々ありますね。御霊様関係の事をいうて、助かってる教会、それこそ、まじないのように、指圧をなさって指圧的な事で病人が助かるという教会。いろいろありますから、助かりすればよいというのでは、やっぱ今日の御理解に悖るのじゃないでしょうかね。
 神を便利屋さんに使うておる。先生から撫でてもらうだけで、痛みが止まったといったような、いわば、神様にしてはならないと云うことです。どこまでも天地金乃神のお心をお心として、分からせてもらい、それを自分共の生活の上に、頂き表して行くと云うこと。
 為には、神様の心を知らなければならない。神様の心を知らんから、神様にいつも片思いをさせる事になるのです。ま、合楽のま、云うならば、おかげのひとつの定法というかね、は、そうなんです。
 神様の心が分かり、神様の心に添い奉ろうと感激する、感動する。その感動が喜びをいよいよ育てていく事になり、ね、その教えを頂いて、心が改まり、教えを頂いて、心が開けて来る、心に限りない喜びが頂けてくる。その喜びを持って、おかげをキャッチしていこうというのが、私、合楽の信心だと思います。
 それをなら、誰でも喜びが頂けるように、こういう生き方になれば、こういう在り方、こういう思い方になれば、ね、おかげが頂けるという、云うなら教えをここでは説きます。ね。
 ですから、どうしても、その、ひとつのま、法というですかね、いわゆるおかげを頂く方法というのをまず、身近に云うならば、頂かしてもらう。おかげを頂く手だてを聞かせてもらうというのが合楽、この生き方でいくと、教祖が云うならば、おっしゃるようにこの方はね、銭金では拝まない。
 今日私はそこんところを、これを教祖様ではない、金光教の信心の立て前というものがね、ああ、よっしゃぁ、だけで助かるというところもある。お徳がある教会やら、先生のところではね、けれども合楽の場合は、忙しかってもやっぱりね、一言なっと御理解を頂いてね、心を開けとこういうことなんですからね、教祖の御信心に、云うなら、悖る悖らないというならば、合楽の信心こそ、教祖の信心の正統派ということになるのじゃないでしょうか。
 この方の信心は、祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かるとおっしゃる。だから、皆さんの一人一人もです。話を聞いて助かるのですから、その話を助かるような頂き方をしなければ、ダメだと云うことです。
 合楽ではそういう段々分かってくると、神様を便利屋さんに使うような人は段々なくなってきますけども、例えばなら、一~十までお伺いをして、という生き方でも、それはね、あなたの心任せ生きたいという願いが、合楽でのお伺いだと思いますよ。ね。                        どうぞ